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この時のショックは私の心の中に強烈に刻み込まれ、「僕は記憶力が悪いのだ。 一番になるには人の3倍くらい努力しなければ駄目だ」と、幼いながら肝に銘じたものです。
そうは思ったものの勉強嫌いは相変わらずで、戦時中のことでもあり、朝から晩まで棒切れを持って走り回っていました。 父は体が弱く、召集令状が来ないままでした。
それでも終戦間際には召集令状が来るかもしれないということで、そうなると残された家族の生活の心配もあり、また実家に引き揚げることにしました。 筑後平野は大変広く、アメリカのB29爆撃機が大牟田市、久留米市、福岡市に焼弾を落としていく様子が、チカチカと光り夜目に映っていました。
幸いにも、父は戦争に行かず終戦を迎えました。 戦後は警察官に戻り、福岡県の南部の山村の駐在所勤務になりました。
このころから食糧難が激しくなり、満足にお米が食べられることはほとんどなく、辛うじて麦ご飯が食べられればよいといった具合でした。 主食といえば、うどん粉を練り合わせて味噌汁にしたものか(当地では「だご汁」と言っていました)、サツマイモでした。
田舎ですらそんな状態でしたから、都会の方ではさぞや大変だったと思います。 いま、ホームレスのことが取りざたされていますが、あばらやながら家はあるとしても、「衣・食」については、いまのホームレスより当時の方がひどいようなありさまでした。
私の住んでいたところにも、続々と買い出しに来ていました。 お米やイモと交換するために、和服などをリュ。
クに詰めて、片道5時間も6時間もかけて来ていたものです。 いくら素晴らしい和服であっても、もともと農家にも食糧が豊富にあるわけではありませんから、なけなしの財産と交換にようやくほんのわずかの食糧を手にできるありさまでした。

これをタケノコ生活と呼んでいました。 着ているものを一枚一枚手放していくことから付いた名前です。
いまの日本では考えられませんが、そこまで食糧事情はひっ迫していたということです。 そうやって手に入れることができた貴重な食糧も、警察官に見つかると没収されてしまうという、いまでは考えられない大変な時代でした。
そのようなときに、私のところでは次のような光景を見たものです。 父の駐在所の前を、母と同じくらいの40歳前後の女の人が4、5人、リュックを背負って通り過ぎて行きます。

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